コミットメント問題

 先日、「村上春樹河合隼雄に会いに行く」を再読して激しく共感する部分が多かった。特にうなずきながら読んだ部分はコミットメントとインディペンデントに関する部分である。実は私はアメリカに来てからというもの、精神的に非常に楽な思いをする事が多い。もちろん言葉がうまく通じなかったり、習慣の違いなどからくる多少のストレスはあるのだが、普通に生活を送る上でこれほどストレスを感じないことは今までなかった。どういうところがかというと、こちらでは集団へのコミットメントの仕方が日本とは全く異なると感じるからだ。この本の中で語られている事でもあるが、日本の場合もしボランティアに参加したと仮定すると、週に3回参加できる人よりも週に5回参加できる人の方がなんとなく偉いという感じがある。また、仕事の後で食事や飲み会に誘われて、それを断り続けると「付き合いの悪いやつ」と言う事になりやすい。私は自分のペースで生活を進めて行きたいし、無理を押してまで飲み会などに参加をするのは嫌だったので、まあ「付き合いの悪いやつ」に分類される方だったと思う。それに飲み会に行くのが嫌だった理由の一つに、自分の気の利かなさとそのために生じる後ろめたさがある。具体的に言うと、まずお酌をするのもされるのも嫌いだし(飲みたければ自分の好きなペースで注げばいいのに)、お酌のためにビール瓶を持って回ったりするのも嫌いでめったにやらなかった。そうすると、「あいつは気の利かないやつだ。」ということになってしまう。大学院に入ってからはそういう事は無くなったが(大学と研究室が変わったので)、学部生の頃の飲み会は本当につらかった。そして中身の無い事をだらだらと議論し合うミーティングに参加するのも嫌いだった。大事な事だけきちんと決めて、枝葉末節なことなんて個人に任せたってたいした支障は無いだろうとよく思っていたものだ。細かい事にだらだら議論の時間を費やし、肝心の論点が曖昧になっていくのを黙って聴いているのは我慢できなかった。だから私が日本で役所や会社に勤めていたら、相当気の利かないやつで、社会人としての常識も無いと言われていただろうと想像する。しかし、こちらではランチや飲み会などよく誘われるが、自分の都合によって断ったとしても誰も何も気にしない、というか、そんなの当然なのだ。それぞれにそれぞれの生活や家庭や仕事があり、それはあくまで個人でオーガナイズするものである。つまり、ある物事にコミットする時にはあくまでも個人(インディペンデント)としてするのである。河合隼雄によると、日本の場合「場」(属する集団:会社、学校など)にアイデンティティーを求める傾向があるので、集団へのコミットメントの仕方がアメリカとでは全く異なるのだそうだ。その象徴的な事として面白く読んだのが、やはり村上春樹著「やがて哀しき外国語」でのマラソン大会に関するコラム。アメリカの場合、参加申し込みは当日でもO.K.で、数ドルの参加料金を支払ってTシャツとドリンクとスナックなどの食べ物がついてくる。支援しているのは、だいたい地元のボランティア。一方日本では、参加申し込みはなんと1ヶ月前が締め切り!!なぜなら、参加者名簿を作るためらしい。そしてその参加者名簿には必ずと言っていいほど「所属」という欄があるのだ。どこの団体にも属していない彼に取ってはこれがちょっと困る事らしい。たしかに、私もこれまでいろいろなスポーツの大会に参加して来たが、必ず申込書や選手名簿には「所属」欄が存在した。ということは、当然どこかに所属しているという事が前提にある訳だ。こんなことからも、日本における「場」のアイデンティティーが垣間見える。もちろんどちらが良いというものではないが、少なくとも今のところ、私にとってはアメリカのコミットメントの仕方の方が格段に楽である。そして、これにもちょっと関わるインディペンデントについて。河合隼雄が書いていた、日本語では現在「個性」の思想が盛んであるが、日本で言うところの個性はアメリカに置ける個性とはちょっと違うんじゃないかということについては私も賛成である。あくまで私個人が感じる事だが、日本における個性とは他人とは違う事を意識的に行うという印象がある。例えば服装だったり、趣味だったり。しかし、アメリカでは人そのものがインディペンデントなので、わざわざ個性を強調する必要がないように思う。街を歩いていてもみんな本当に様々な格好で歩いているし、何をしていようが公衆道徳的なことに差し障りが無ければ誰も何も気にしない。私の勤める大学周辺では同性同士のカップルが普通に手をつないで歩き、ミニスカートで裸足のかわいらしい学生が猛スピードで自転車をこいでいたり、大学にジャージで登校したり、幹線道路の脇にあるちょっとした原っぱで一人でランチを食べていたり、バスに乗りながらiPodを聴いている人が普通に声をだしてハミングしていたり、また、雨の日にバスの中で濡れたシャツをハンガーに掛けて干していたり、などなど。アメリカにおける個性とはすでに個人の中に出来上がっているので、特に意識する必要が無いことなのではないだろうか。そんな彼らを見ていると、日本における「個性」とはちょっと肩に力が入っているような感じがする。そもそも英語とは言語の構成があまりに違いすぎるし(英語はsubjectとobjectが非常にはっきりしているので、independentを認識しやすいと思う。)。それを否定するつもりは無いけれど、もうちょっと違った日本文化に合ったアイデンティティーはないものかなーと考えてしまう。だって、日本文化そのものが十分に個性的なのだし、それを支えているのは日本の国民性でもあるのだし。無理に欧米的な「個性」を持ち込む必要も無いような気がする。もっとも、最近のアメリカの教育では「特別な自分」という「個性」の教育が盛んになってきているらしいけど。

村上春樹、河合隼雄に会いにいく
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